例の件。

しょうがない、ことでした。


行動を起こしたものの、自分で考えることのみに留まるのは不安だったため、今高校に通っている他の人に連絡を取り、たしかめてみました。
たしかめるというのは、部活自体で動いているのかどうかを知りたい、というのもありましたが、それよりも僕がのけ者にされているのではないのか、を確認したかった。というのは言うまでもないことです。


結局、僕が考えても、しょうがないことでした。
というのも、僕がたてようとした波は、とても小さな水滴のようなもので、静となってしまった部活の表面を揺らすのは、できなかったのです。
2年の部長に手伝おうと言っておきながら、部全体をなかば傍観するような立場にいましたが、知ったのは3年生は計画自体を知らなかった、つまりは計画自体がなかったという事実でございます。
僕がのけ者にされながらも空回りしているだけではないか、と思いつつ怖がりながらもたてようとした波は、水面に飲み込まれた小さな水滴は波にもならず、無惨にもなくなってしまいました。


ですが、これといった後悔はありません。
結局残ったのは、僕はのけ者にされていたのではなかった、という確定ではないにしろ嬉しい予感で、それと卒業生が送れることができない寂しさが、ちょうど相殺された具合だから、だと思います。
こんなことを言ってしまうと自分の醜さに気分が悪くなりますが、正直な感想は、それが全てでした。
じゃあ最初から自分だけで計画していたら上手くできたのではないか、という考えもありますが、いまとなってはどうでも良いことのように思えます。
それは、確認のために行っていた会話で、その人の言動の節々からは、なくてもいい、というような気がとれたからです。まぁ、これは僕の勘、なんですけれども。
今の3年は仲が悪く、1人と他の4人がとても激しく対立しております。僕が部長だった頃はなんとかしようとしましたが、何回やってもすぐにほころんでしまう、正直部長を辞してしまいたいと思うことは、何度もありました。
僕らという楔で繋がっていた今の3年が、それのなくなった今年度、仲良くできるはずがなかったのです。
そんなこんなで、彼らも部活での卒業祝いは、願っていないのかもしれません。


とまぁ、今考えても、しょうがないことです。
ですが、重荷はひとつ、減りました。